林昌院について
当院は
天文
21年(1552年)
慧明法印
が、
修験道
の秘訣と
真言密教
(
弘法大師
の教え)を修学後、当地に
草庵
を結び、
不動明王
のご尊像を安置して開かれました。
その後、慧明法印はしばしば清洲城に出向き、
武運長久
・
国家安泰
の祈願修法を行い、その功によって織田信長公の内命により堂宇を建立しました。
寛文
3年(1663年)には
尾張藩主 徳川光友公
より、名古屋城の
乾櫓
にお祀りされていた、
秋葉大権現
(火防の神)の御尊像を宮殿と共に
下賜
され、当院にお祀りしました。
織田信長公との関係
慧明法印は
大和
の人で、幼にして
大峯山 大先達 阿吸法印
の
内山永久寺
に入り、仏教と儒教を学び、あわせて
聖宝
(
理源大師
)が再興したと言われる大峯山で修験道を極めました。
天文21年、聖地
小篠
宿で夢想の感を得た慧明は、ここ
多楽
村にやってきて草庵を結び、不動明王をむかえて、日夜勤行修法につとめました。これが
阿遮羅山林昌院
の始まりです。
慧明は清洲城に進出した織田信長公から厚い信頼を得、堂宇の建立を許されます。
今川義元
が
上洛
を企てると、信長は慧明に戦勝祈願を命じて
田楽桶狭間
へと出陣します。慧明が戦勝呪術をとり行うと突然雷をともなった大風雨が起き、信長は大勝します。
喜んだ信長は林昌院に大定寺
大定寺
(勝ちを大きく定めた、意)という寺号を与えました。信長は好んで
一定
という言葉を口ずさんでいましたから、大定寺には真実感があります。
慧明の名は広まり、林昌院は修験道の中心道場として栄えることになります。
後の盛時には三十余ケ寺の末寺を数え
院家格
(別格本山)に昇格しました。
現在は
高野山真言宗
の末寺となって日夜勤行を行っています。
当院の宝物(現在は非公開です)
絹本著色聖宝像(けんぽんちゃくしょくしょうぼうぞう)
一幅 縦124.5cm、横111.5cm
醍醐寺
の開山である
聖宝理源大師
(832~909)の肖像画です。
お軸は、聖宝が右手に
五鈷杵
を持ち、左手に
袈裟
の端を握り、
牀座上
に坐すところが描かれています。
この姿は、
上醍醐
の開山堂に安置されている彫像の聖宝像と一致しています。上醍醐開山堂の像は、
弘長
元年(1261)に再興された像ですが、聖宝を描くときの規範となった像でございます。
本図には、旧
裱背墨書銘
が伝えられており、かつて醍醐寺に伝えられていたことがわかります。また、現在の裱背墨書銘には、
応永
25年(1418)の年紀があり、これを修理銘とすれば、本図の制作はもう少し古くなり、南北朝~室町時代初期ということになります。
いずれにしても、現状では最も古い聖宝の画像であり、貴重な作例です。
秋葉山 林昌院
春日井市田楽町1716番地
TEL 0568-84-6238
FAX 0568-84-2620
交通/JR中央本線春日井駅から名鉄バス
小牧行き 西町屋バス停下車 徒歩10分